2009/04/15

トリにエサをやることについて

「トリにエサをやることは自然環境に影響がある」という意見が環境保護家や研究者の中にあります。
まあ、それは正論なんでしょうが、、そもそも「ヒトの存在が自然環境ではない」という基準に立脚している理論なんですね。


そもそもすずめやからす等々がここまで増えたのは人間がいたからです。
もしかすると、彼らがここまで利口になった(ヒト的な基準で)のも、人間がいたからかもしれません。

すずめはヒトがその土地からいなくなると、その土地を去ります。
からすはヒトがいなくても生活していけますが、ヒトがいる所の方が遥かに多くのからすがいます。


つまりこうです。
・ヒトが農業を営むようになり、エサが増えた(草食系トリ)
・ヒトが食物を食い散らかし、エサが増えた(肉食、雑食系トリ)

意図してかせずか、ヒトは大昔からトリにエサを提供し続けてきたのです。
今更、たかが個人がエサ台を作ろうと、ヒト全体の影響に比べたら取るに足りません。


例えば、ヘビがトリのヒナを狙っていたとして、それをヒトが防御しても大した問題じゃありません。
ヘビは代わりのエサを見つければ良いだけの話です。むしろ、注目してたヒナ以上に良いエサがあるかもしれませんし。
こんなのは、人間社会でもよくありますよね。
例えば、トリのヒナが巣から落ちて瀕死なのを拾って育てても大した問題じゃありません。
自然に還れるかどうかも分かりませんし、還ったところでたった1羽のトリです。そのままうまく元の環境にとけ込めるかも分かりません。
ヒトの元で生涯を過ごすかもしれませんが、外を知らないトリにとってはそれも幸せかもしれません。ちょっと寂しいけれど。

ライオンがシマウマの子供を育てたら美談。
なのに、ヒトがすずめのヒナを育てたら「放っておかなければ、それは自然の摂理に反する」、、みたいな、ね。


こういう考えって、ある意味ヒト以外の生物を下に見てる証拠だと思うんですね。
「ヒトは地球生物より上の次元にいて、ヒト以外の地球生物を助けても殺してもいけない」、と。


太古からの日本的な考え方を応用してみたら、答が出てきました。
「私達は植物を食べる。なら、植物を育て愛でよう。」
「私達はトリを食べる。なら、トリを尊敬し、彼らが食べるものは放っておこう。」←田んぼのタニシとか
「私達は魚を食べる。なら、魚を食べるモノを調整して食べよう。」←クジラとか
最後にゃ、「私達は命をかけてクジラを狩り、食べる。供養しなければバチが当たる。」←各所にあるクジラの供養塔

全てはバランス。
何かを食べなければヒトは生きていけない。
食べるだけで終わりなんでしょうか??養殖だからといって。
上記の行為はヒトなりの「恩返し」だと思っています。
それが自然の中にあるヒトのポジションだと思います。

奇跡的に異常に歴史が長い国である日本においては、そういった考えが深層心理にまで染み付いています。
だから、私達が自然環境に対してふと感じる事は、おおむね間違ってないのではないか、と思うこの頃です。


すずめ。
彼らは春〜初夏に害虫を食べてくれます。
逆に、秋の実りの頃、イネ自体を食べちゃったりします。
益鳥でもあり害鳥でもある、ニヒルなすずめ。

これはヒトとすずめの暗黙の契約だと思うのです。
すずめサイドからすると、「害虫を我々が食べたおかげで増えた収穫分は、すずめ様が自由にして構わんだろ」という(笑)。

でも、それこそがバランス。

今後ヒトが守っていかなければならないのは、そういう暗黙の契約でしょう。
それこそが自然環境への同化(「自然保護」とか「地球を守る」「地球に優しく」ってのは、ヒトがあらゆる生物より上って思想なので大嫌い)。

過去、ヒトは契約を無視してすずめを虐殺したり、そのせいで農作物が害虫によって壊滅されたりしました。

少なくともトリとヒトは同等か、トリは遥かに先輩だと考えておくべきでしょう。
鳥インフルエンザによって渡り鳥まで殺されるなら、インフルエンザ以上にヒトや環境がダメージを負うかもしれません。

結局これって、
「養鶏だからといって、悪環境でトリ飼育して食うのもほどほどにしとけよ」
というメッセージであることを感じ取る必要があると思うわけです。

だって、肉をほとんど食べない私からすると、「卵で十分じゃん!」と思うからです。
牛だって、生クリームとチーズ、牛乳、バター、ヨーグルトで十分だし。


まあまあ、そんなんはいいとして、トリがどうあるかが地球を握っているのですよ。
恐竜の子孫とも、(極一部の研究では)恐竜の先祖ともいわれるトリ。
ヒトの言葉を教えるのも良いんですが、私達がトリの言葉を理解する必要を感じます。

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